1981 – 2000|0歳〜19歳|スポーツ サーフィン パソコン
1981年、神奈川県藤沢市生まれ、藤沢育ち。日本人。スポーツや音楽が好きで、中学校までは野球、高校からは同級生の影響でサーフィンに熱中する。学生時代には、サーフボード工場勤務経験も有り、波乗り生活に魅せられていく。10歳くらいまでは学校の勉強に興味を持っていたが、以降は学校教育に無関心になる。団体行動は好まず、1人または少人数で黙々と何かにハマる事が好き。Windows98搭載ノートパソコンを初めて手に入れたのはこの頃。
2001 – 2007|20歳〜26歳|千葉一宮 将来不安 柔整師 千葉館山
特に本気の将来設計も無く、ふわふわ適当に過ごしていた。当時、サーフィンの為に2020年東京オリンピック会場になった千葉県一宮町に住んでいた。そんなある時、僕は将来の自分を具体的に想像した。このまま歳を重ねていくと間違いなく訪れる、25歳、30歳の自分自身。これはまずい!と思った。すぐに地元に戻り、消去法で将来の道を一旦決める事にした。そして、専門学校で筋肉と骨格を中心とした、身体の作りと機能を3年間学ぶ。その間、サーフショップ勤務や、JPSA(日本のプロサーフィン団体)試合会場初の選手ボディケアブースを出すなど、有難い機会に恵まれる。世にスマートフォンが登場したのはこの頃。しかし、まだその価値を正確に理解できていなかった。
2008 – 2009|27歳〜28歳|挑戦 独立 暇 ネット社会 SEO
たいした経験も無いまま、27歳の時、地元で接骨院を開業。患者はオープン当初からすぐに来ると誰かから聞いてはいたものの、来ず。暇だったので、週に4日間ほどは途中で院を閉め、波乗りや買い物に。そして、患者が増える事も無いまま、開業半年後には辞める事も考える。
しかし開業7ヶ月目、転機が訪れた。それは、ガラケーでのITマーケティング戦略だった。戦略といっても、ただ暇な時間を使いガラケー専用のホームページをCMSを使って作っただけ。すると、数日後にはそのホームページを見て患者が来た。あっと言う間の反応だった。これは面白い。ちなみに当時はまだCMSが市場に出始めた頃だった。
僕は次に、パソコン用のホームページをこれまた日本上陸したてのCMSを使って作った。そしてまたそれを見て患者が来た。サイト上の文章や内容には、院の情報と僕自身の個性がわかる内容も混ぜた。これには、客層を調整する効果が有ったと思う。
ただホームページを作り、SEO対策をしただけで、院の経営は一気に上向いた。この結果を作れたのは「時代の少し先を読み、他者より早く行動する事」がたまたま出来ていたからだと思う。時代に合った行動を、適切なタイミングで実行するとどうなるのか。この偶然の成功体験は僕の価値を大きく変えた。
僕はこの後も、Webマーケティングにハマっていく。オリジナルドメインを持ち、オリジナルデザインサイトをワードプレスで作る。そして、短時間で高単価になりそうな患者に絞り、集客をコントロールした。それは時間と資金を作り、次のステージに進む為には必須な行動だと思ったから。
2010 – 2012|29歳〜31歳|成功 生きる意味 習慣 情報 検索力
患者が増え、お金が回り始めた。客層を選ぶ事で、自分1人でやっていた院だったが、自由時間も出来た。僕はその時間とお金を、自分の情報選択および抽出能力に変えていった。その頃、世は検索力が求められる時代に変化していた為だ。大量の情報シャワーを主に耳から聞き、そこから本質を抽出する作業を毎日休み無く、数年間続けた。気になる人物がいれば、その情報源を集め、読み聞きし、その人の感性や思考回路を学んでいった。それは時代に合った、自分の能力を最大限に開花させる大切な習慣で有ったと思う。この作業は今でも継続していて、面白い。
30歳を過ぎてから、僕は自分の人生を生き始めた気がする。
2013|32歳|コンサル IT革命 体調不良 人生の優先順位 雇用
この間、会社を別に作り、他院へのコンサルもやってみた。同じ成功法則がコピー可能か、調べてみたかったからだ。結果、IT革命の本質はコピー可能だと分かった。
自院の経営も順調にいっていた時、次の転機が訪れる。1人でこなすには、ギリギリの仕事量になっている状況が続いていた。この最高な状況の中、最悪なタイミングで体調を壊す。そして早くも、僕の人生の優先順位は決まった。1に健康、2に時間、3に何かに没頭する事へ。これを実現させる為に試行錯誤を続ける、そんな道へ方向転換した。
開業5年で、院経営全体をテンプレート化し、誰がやっても院内業務がまわるように仕上げた。そして1人でやっていた院を、院長含め他人を雇用するという方法で自分から自院を手離れさせ、自分へ更に健康と時間と体験を届けるという選択をした。
2014 – 2015|33歳〜34歳|雇用失敗 外注失敗 日本一周
スタッフ雇用した院経営は2年間試した。しかし、これは失敗だった。そもそも、雇用した事で自院は手離れしなかった。
雇用で失敗した次の手は、院を丸ごと外注し、再び自分から自院の仕事を手離れさせようと試みた。これも成功したとは言えないが、僕は場所に縛られない時間を得る事になる。そのチャンスを生かし、まずは自国を知る為に日本一周をした。体調が悪くサーフィンする気にはならなかったが、車で日本全国を見て周った。日本は大変素晴らしく、超文化豊なサムライの国だった。ぜひとも再建不能な古いものは残し、IT大国になる日本をみてみたいと思った。
この頃自分は、100%オンラインで完結させる個人ビジネスをやろうと決める。
2016 – 2018|35歳〜37歳|海外移住 サーフィン再開 共産国 事業譲渡
35歳の頃、日本を出ることにする。何となく思い続けていた、日本を出ないとヤバイという気持ちと、より広い外からの視点を持つ為に。それから、自分が何者か知りたくなってきた頃だったのも重なった。日本にも日本人にも無変化な日常にも飽きていた。
かなり長い間、海から離れていた為か、興味を失いかけていたサーフィンを再開。以前ほど楽しいとは思わなかったが、波乗りが出来る海外をゆっくりと放浪した。その間、他のビジネスもやろうとしてみたが、情熱が出ずに中途半端で諦めた。長い間、無気力ふわふわ状態を経験しながらも、日本には帰らず、海外生活にこだわった。特に何もやらないなら、せめてもの人生の差別化は海外生活を続ける事、と考えた結果だった。
海外生活では、ホテルやコンドミニアム、民泊を転々としたノマド生活を送っていた。以前から僕は引越しが好きで、日本でも最短3ヶ月で引越した事が何度か有る。海外では、日本のような礼金や仲介手数料家賃1ヶ月分という時代遅れな負担が無く、家具付きなので日本よりも引越しがしやすい。しかし、バックパッカーのような早い移動は好まず、月単位で各国に滞在していた。その滞在に選んだ場所は、アメリカサンディエゴ、東台湾、タイプーケット、そしてベトナムダナンだった。
サンディエゴは今でも大好きな場所ではあるが、差別文化、物価、食が合わず。東台湾は、空気は綺麗であるが、人・物・金・情報の全てに弱く、自己成長に課題が有ると感じた。タイのプーケット島は、西洋化され過ぎていて合わなかった。そして、2016年10月、プーケット帰りにダナンというベトナム第3の都市に立ち寄り、ダナンにハマる。
当時ダナンを選んだ理由は、僕が反応するアレルギー源が全くなかった事、若く経済発展が著しい事、物価が安い事、そして趣味のサーフィンが貸し切りの海で楽しめる事だった。また、社会主義で仏教国であるベトナム人の様々な反応や行動は、他の東南アジアと比べて違っていた。それは無感情で無表情にも見えた。よく言えば、嫌な事はすぐ忘れ、ほっといてくれるけど世話好き。僕は、過剰なお節介や、斜め後ろから声を掛けてくる人が苦手なので、この空気感が僕には合った。結局ダナンには、3年くらい居る事になる。ベトナムでの経済バブル体験は、言うまでも無く現代日本の常識は無かった。
ここまでの海外生活で、世界には実に様々な人がそれぞれの価値で生きている事を体感できた。これにより、日本国内で抑制されてきた「自分の個性や思考」を外へ出して良いと確信できた。
接骨院は、結局合計10年経営し、中国人実業家へ譲渡した。ベトナムでも強く感じていた、時代は中国のやり方なのかなと思う瞬間であった。これにて、僕はようやく次の人生へ進む決意ができた気がした。しかしこの10年間、めちゃくちゃ学べた。日本の中学校以降の一般学校教育が、いかに経営実務で直接的に使え無いものなのかもこの間にはっきりした。
2019 – 2020|38歳〜39歳|YouTube ベトナム縦断 新型コロナ バリ島
ダナンの街や海が騒がしく、よそよそしく、ローカル感が減って来た頃、ダナンを出ようと決める。そして、ベトナム海岸線を縦断し、サーフポイントマップを作成していく旅に出る。このベトナムの旅では多くの問題を抱えながらも多くの事を学べた。ベトナム各地に地域性があった。もし打ち勝つ事が出来るなら、人生の負荷は強い方がそれに見合った成長ができると感じた。
旅の詳細は「Vietnam Mujin Surfing」Webサイトに書いてあるので興味が有る方は是非そちらをご覧くだい。ベトナム全国の貸し切りサーフポイント情報が満載です!
ベトナム縦断サーフトリップの途中、ベトナムのビンディン省という田舎に居たころ、新型コロナ感染症拡大のニュースが入るようになってくる。これが段々と無視できなくなり、僕らは仕方なく予定を変更しダナンへ戻る事にした。ダナンに戻ってからの外出時には、何度もグラブドライバーに乗車拒否された。理由は、日本人の新型コロナ感染者が一時的に増えたから。今後この事態は悪化すると予測し、ベトナムを出ることに決めた。
次の旅先はインドネシアのバリ島を選んだ。世界一のサーフトリップ先であるインドネシアを知りベトナムと比較すれば、ベトナムサーフィンの良さを説明できると思ったからだ。早速、航空券を予約した。しかし、新型コロナ感染症の状況は日々悪化し、バリ島ングラライ国際空港封鎖の可能性が出てきた。すぐに予定をしていた航空券を捨て、より早い航空券を取直しインドネシアバリ島へ渡った。それはバリ島の国際空港閉鎖の2日前というぎりぎりのタイミングだった。
ここから1年以上、新型コロナ禍のバリ島に滞在することになる。観光客は途絶え、アジア1の観光地はみるみる衰退し、観光地ほどシャッター街となっていった。次々と母国に帰国する外国人。周囲の島々から来ていたインドネシア人らもバリ島を去っていった。そして、25年前とも30年前とも言えるらしいバリ島にタイムスリップしていく。僕は騒がしいバリ島に集まる人々が苦手だったけど、人の少ないバリ島は最高だ。
バリ島生活でも海外生活ならではの不快な事は満載だったけど、新型コロナが落ち着くまで居ようと思っていた。しかし、1年が過ぎたころ、変異する新型コロナ的にも直感的にも日本に帰国したくなった。もう2年近く帰国していないし、不安定な世界状況の中の海外に居ることに疲れてしまった。久しぶりに日本で充電しようと決め、日本へ帰国。
2021|40歳|日本 国内 新型コロナ
日本帰国後は、いつもの事ながらご飯の美味さに感動。そして、外出はほとんどせず、iHerbやAmazonをポチり、YouTube Premiumを観て、Voicyを聴いている。サーフィンは一度もしていない。サーファーのいないベトナムの海を知ってしまうと、世界一混雑した湘南の海でサーフィンする事はもうないかも。
日本人に日本のご飯を食べさせ、日本の空気を吸わせると元気になる。約束やルールを守る高い民度を感じ、長旅の疲れが消えてきた。乱れた体内コンパスは、再び北を指した。
2022 – 2023|41歳|ダナン
再びベトナムダナンに戻る。続く。